フィンケの創業者、ヘルムート・フィンケ氏の思い出

写真はヘルムート・フィンケ氏。
フィンケの創業者です。僕ら職人は「ヘア・フィンケ」と呼び(Herr Finke 、ミスター・フィンケ、フィンケさんという意味)、ヨハネスやクリスチャンは家族なので「パパ」と呼んでいました。僕が見習い職人を始めた頃はパパフィンケはもうリタイアしていて、あまり動けなくなっていましたが、工場と家が繋がっていたので、体調が良い日はパパフィンケは奥さんに付き添われて工場内をゆっくり散歩したりしていました。殆ど僕らの仕事には口を出さなかったと記憶しています。僕より5年早く修行を始めた同僚のミヒャエルはパパフィンケが現役で楽器製作をする勇姿を見た最後の世代、と言ってもミヒャエルは僕より若いのだけど、彼は、体が思うように動かせないパパフィンケを見て、「ベルの絞りは腰に来る。オレはゴメンだ」とか言ってたと思う。記憶が曖昧だけど😅
僕が知ってるヘア・フィンケはもう弱ってしまっていたけど、若い頃はさぞやエネルギッシュだったんだろうと思います。
時は遡って1943年、ご存知、第二次世界大戦の真っ只中、パパフィンケは国防軍の兵隊さんでした。それも桁外れの死者数が出たドイツとソヴィエトの戦い、いわゆる「東部戦線」の最前線にいました。そこで重傷を負い、戦えなくなった彼は任を解かれドイツ国内に戻り、機械エンジニアを学び、そのまま終戦を迎えることになります。
終戦後、彼は地方都市ヘアフォードで発足したオーケストラのセカンドトランペット奏者を務めています。そして1950年、ヘアフォードで自身の工房をひらきました。初めはマウスピースを作り、その後、数多くの古楽器のレプリカも製作し、1950年代の後半には最初のホルンを製作しています。仕事はどんどん増えて、遂に1964年、現在の所在地であるエクスターに広い工場を建設しました。
彼のデザインする楽器は独創的です。樹脂製バルブやタンデムバルブ、更に1つのバルブケーシングの中に2つバルブが入っていて、上下で違う回転をしたりします。独特過ぎて主流にはならないのですが、例えば、専門家以外には無縁な名前ですが、ギュンター・ドゥラートやヘルベルト・ハイデと言った重要人物の専門書の中でフィンケの楽器は紹介されています。更に、これまた誰やそれ?ってなりそうですが、オットー・シュタインコプフやクラウス・ヴォーグラムと言った音響学において重要な学者達ともパパフィンケは共同研究を行っていたのです。伝わりにくい内容ですが、楽器製作の専門的な勉強をすると以上の4名の名前は「マジかよ!?」という感じです。彼らの研究や本を使って学校で勉強するんです(ドイツの職人制度ではゲゼレと呼ばれる職人になる時やマイスターになる時、学校に通ってたくさん勉強をします)。
そんなこんなで、若い頃はかなり攻めていたのです。彼が亡くなって、すぐに奥さんも亡くなり、老犬のジェニーも亡くなり、しばらく間があってヨハネスの兄、クリスチャンも亡くなってしまいました。看病も大変だっただろうし、相続の問題で大騒ぎになったしで、側で見ていた僕としてはやはり火の玉のようなエネルギッシュさと言うか、嵐の様に感じてしまいます。創業者って感じです。
印象に残っているのは、ある夏の気持ちの良い午後のこと、僕が仕事が終わった後、外でホルンの練習をしていたら、向こうからヨタヨタとヘア・フィンケがやって来ました。僕が「ごめんなさい、うるさかった?」と尋ねると彼は、「高音は腹を使え!」と、かすれた、しかし凄みのある声で言い、またヨタヨタと今度は庭の奥の緑の方へ姿を消しました。音を聴いてアドバイスしに来てくれたのか、或いは僕がたまたまヘア・フィンケの散歩コースの途中に立ってただけなのか、今はもうわかりません。

HMGHORNS's Ownd

HMGは大阪弁天町にある金管楽器工房です。 HMGでは、金管楽器の修理からパーツ製作までを行っております。 修理やパーツ製作を担当するのは、ドイツで資格を取得した金管楽器マイスターです。